フランス軍におけるアフリカ系兵士の系譜

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 小梅ちゃん誕生日おめでとーございまー!(エ)昨年はVast worldやエルドリッチ・ロアテラーの新曲なんかもあり確かな存在感を示したよう思う。今年も一層の活躍を期待したい。

 

ところで、フランス軍がその隊列のなかにアフリカ系を取り込んできた歴史は古い。かの『三銃士』を執筆したアレクサンドル・デュマの父親トマ=アレクサンドル=デュマは黒人女性と白人男性の間に生まれたムラートで、ルイ16世、および革命軍のもとで戦い続けた猛将として知られた。

革命によってそれまでの寄せ集め軍から精強な国民軍へといち早く変貌したフランス共和国軍だったが、それは兵隊の損失がそのまま国家の人的資源損失につながるという点で新たな問題を産んだ。19世紀半ばにアフリカへと勢力を拡大していくようになると、広大な被支配地や現地の反乱勢力と戦う兵員が今まで以上に求められるようになる。そうした問題を解決するため、フランス軍は外国人兵士で構成されるいくつかの部隊を創設する。このとき創設されたものとしてヨーロッパ系を中心とする外国人部隊が有名だが、今回はあまりスポットライトの当たらないアフリカ人の部隊を記す。

 

・歩兵

 ・ズアーブ

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19世紀以降、アルジェリア侵略を契機に北アフリカへ勢力を拡大したフランスは、戦線の拡大に応じて現地人兵士を編成する必要に迫られる。外人部隊と設立を同じくする1831年に、ベルベル人からなる『ズアーブ兵』と呼ばれる軽歩兵隊が編成された。はじめは北アフリカ現地人で構成された部隊であったが、部隊の拡大に伴いヨーロッパ人入植者や仏南部地域出身者を中心に構成されるようになる。

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彼らの個性的な軍服と向う見ずな勇敢さは対外戦争、特にクリミアで大いに発露され、フランス陸軍最精鋭としてその名を馳せるようになった。特徴的なファッション──フェズと呼ばれる北アフリカの帽子にエキゾチックな短いジャケットとぶかぶかのパンツを纏った姿──は世界中の軍隊で模倣されるまでに至った。

例えば1860年ローマ教皇領で成立した「パパル・ズアーブ(教皇のズアーブ)」はイタリア統一運動に対して頑強に抵抗し、ガリバルディ率いる赤シャツ隊を撃ち破る活躍も見せた。軍服は灰色に赤い装飾で、フェズの代わりにケピ帽を被っていた。教皇の兵がアラブ人みたいな帽子被ってたらバツが悪いしね。

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1863年に発生したポーランドの一月蜂起では、元ズアーブ兵のフランソワ・ロシュブルンによって「ズアーブズ・オブ・デス(死のズアーブ達)」が結成され、ロシア軍への抵抗運動に身を投じた。

彼らは羊毛で縁取られた赤いフェズ帽に黒いフロックコートとパンツ、大きな十字の刺繍を胸に入れた独特な軍服を身に纏った。「勝利か死か」という本家に負けず劣らず向こう見ずなモットーを掲げ、退却命令や降伏を自ら拒否するほど苛烈な戦いぶりを見せたという。

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イギリス軍においても1856年、カリブ海の西インド連隊がズアーブ式の制服をあつらえている。白いターバンを巻いた赤いフェズ帽を被り、白いウェストコートの上から赤色のジャケットに黄色の装飾をほどこしたもので、ズボンは濃紺に黄色のパイピング。

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所変わってスペインでは1872年に勃発した第三次カルリスタ戦争で「カルリスト・ズアーブ」と呼ばれるズアーブ兵が王位請求者アルフォンソ・カルロス・デ・ボルボンの護衛を務めた。ベレー帽を着用しているのはレコンキスタな歴史を鑑みてか。

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 ざっと見ても様々な国家で模倣されていたことが伺え、よほど当時のヨーロッパ人はズアーブに憧れていたようだ。

とはいえ、フランス以外で最もズアーブが活躍した国といえばなんといってもアメリカが挙げられるだろう。南北戦争の間、ズアーブ兵は両軍で広く運用された。事の発端は1856年に軍人エルマー・E・エイズワースが「合衆国ズアーブ・カデッツ」と呼ばれる民兵会社を設立し、国内行脚して訓練を普及させたらしい。

北軍の著名なズアーブ

・第5ニューヨーク義勇兵連隊(通称:デュリーのズアーブ)。軍服はほぼフランスのそれに準拠しており、北軍におけるエリート部隊の1つ。同じくズアーブ制服に身を包んだ第165ニューヨーク義勇兵連隊は姉妹部隊とみなされた。(こちらは帽子飾りがダークブルー)フェズがずり落ちないようにターバンで固定しているやつも。

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・第114ペンシルベニア歩兵連隊(通称:コリスのズアーブ)。濃紺に赤の装飾とスカイブルーの袖口。支給される制服はコリス大佐自身がフランスから輸入してたらしい。太っ腹ですね。

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・第11ニューヨーク義勇兵連隊(通称:ファイア・ズアーブ)。ニューヨークの消防士達が中心となって結成。色々制服があったようだけど赤いオーバーシャツにダークブルーのズボンが有名みたい。

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南軍の著名なズアーブ

ルイジアナ・タイガース(通称:ウィート特別大隊)。社会的底辺層のアイルランド人やドイツ人港湾労働者、またルイジアナ義勇兵から構成された強靭な部隊。軍服は赤いシャツに紺か茶色のジャケットを羽織り、特徴的な青いストライプが入った白パンツ。頭にはフェズもしくは適当な帽子。この適当さが南軍らしくていいですね。

南北戦争は軍服や通称なんかが個性的な部隊も多くて勉強したいんですが、時間と分かりやすい資料がなくて保留中……。

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 こうして見るとアフリカに縁を持つファッションが世界中の白人(南軍兵士でさえ!)に模倣され、「エリート兵士」の象徴として扱われていたという事実は興味深い。最も、憧れられたのはフランス軍によって「洗浄された」ズアーブ兵士だった訳だが。

・ティライユール

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純粋なアフリカ人の兵士であればティライユール(狙撃兵と訳されることが多い)の存在が挙げられるだろう。「ティライユール」とはもともとナポレオン時代に軽歩兵の一種として存在していたものだが、時代を経るにつれ植民地人兵士を差すようになった。これについては初耳だったのだが、どうもヴォルティジュール(選抜歩兵)の姉妹的な存在として皇帝親衛隊で運用されていたらしい。

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セネガル狙撃兵。1857年に設立されたこの部隊は主にセネガルやモロッコ等仏領西アフリカ出身者で構成され、WW1においてはおよそ16万の大軍に膨れ上がった。

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セネガルの都市部出身者のなかには黒人部隊でなく白人部隊へと組み込まれ、フランス人と轡を並べたものもいたようだ。彼らの中には戦いを通して「支配されるままの植民地人ではなく、血税を払った正当な市民である」といった近代国民意識が芽生え、戦後の権利向上を求める動きに繋がるといった点で大きな意義があるものだった。

 セネガル狙撃兵を取り巻いた当時の政治的判断については興味深い論文があったので参照

http://ir.c.chuo-u.ac.jp/repository/search/binary/p/8270/s/6413/

 

アルジェリア狙撃兵(通称:トルコ兵)。クリミア・メキシコ出兵・そして普仏戦争とフランスの対外戦争の大半に出兵した歴戦の部隊。活躍にも関わらずティライユールのほとんどはフランス人より低い賃金で使役されており、これを不服とした反乱が起きたこともあった。

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・モロッコ狙撃兵。WW1中にフランスの為に戦い死亡したティライユールは7万にのぼり、彼らを讃えるためフランス最大のモスク「グランド・モスケ・ド・パリ」がパリ市内に建設される運びとなる。同モスクは後にナチス・ドイツが欧州を席巻した際に逃亡したユダヤ人を匿ったり、レジスタンスの活動拠点としても機能していた。

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・トンキニーズ狙撃兵。ティライユールの中にはアジア人で構成された部隊も存在していた。1883年に勃発した清仏戦争ベトナムの支配を図ったフランスは、ベトナム人カンボジア人から構成される部隊を結成する。

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設立当初はニスを塗られた竹で作られた平らな頭飾りに赤い腰巻を纏い青、もしくは白の伝統的な衣装からなる制服を着ていた。1900年以降はカーキ色になり、制服も標準化される。一方でピッケルハウベみたいなスパイクがついた笠を装備するようになる。

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彼らは義和団の乱北アフリカでの反乱鎮圧に従軍し、WW1では4万の軍勢でヨーロッパ本土へと遠征を行った。遠征軍を送ったシャム王国と並んで欧州の地を踏んだアジア人の兵隊なのではないだろうか。なんともオリエンタルな笠がtres bien。

以上のようにティライユールという名前は植民地に用いられることが多かったが、普仏戦争の際にはフランス人義勇兵(民兵)たちがこの名前で呼ばれていたりする。国民擲弾兵かな?

 

 ・グミエ

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1908年にモロッコ人を主体とするグミエと呼ばれる歩兵が編成される。平たいターバンと灰色と茶のストライプが入った外套がトレードマーク。WW2においては12000名が参加し、主に北アフリカ、イタリア戦役で活躍した。激戦となったモンテ・カッシーノの戦いにおいて、山岳部隊としてドイツ軍陣地へと浸透した彼らは「ナイフを手にほとんど垂直に近い地形を踏破し、ローマへの道を切り開いた」と米軍から称された。一方で現地イタリア人に対する略奪や強姦等の戦争犯罪で汚点を残した。(彼らの所業は「モロッコ人がやるような」という意味でマロッキナーテと呼ばれた。)

 

・騎兵

 ・スパッヒ(オスマン帝国下の騎士シパーヒーのフランス語読み)。1830年にアラブ人、ベルベル人等を中心に構成された軽騎兵連隊。ティライユールとは違い現地アラブ社会の上流階級の人間が選ばれた点で騎士っぽい扱いだったのかも(もともと自前で馬を揃えられることが入隊条件だったらしい)。フランス軍で現在まで存続している数少ない連隊のひとつ。

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 制服はズアーブとよく似たスカイブルーのウエストコートに赤いジャケットを羽織り、赤い腰巻に青パンツの姿。そしてクーフィーヤと呼ばれる伝統的なアラブの頭巾とバーヌースと呼ばれるマントを纏っていた。士官の制服はフランス人とイスラム教徒で区別されており、フランス人が水色のケピ、赤い制服、ライトブルーのズボンを履いていた。これに対してイスラム教徒はラクダの毛のイカール(頭巾を固定する紐みたいなやつ)で固定されたフェズを被った。上流階級から集めてきたためか現地人も士官として登用していたわけですね。

 

・メハリステ(ラクダ騎兵)。1902年にサハラの遊牧民チャンバ族を中心に創設されたラクダ騎兵隊。制服はガンドラと呼ばれる青か白のコートを羽織り、ターバンと白いベールを着用した。腰と胸で交差するように巻かれた2つのサッシュが印象的。ラクダは敏感な生き物なので騎乗してる時は素足だったらしい。動物って大変なんだネ。

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これまで紹介してきた独特の制服を纏った現地人兵士たちを振り返ると、フランス人から見た「異文化」へのアンサーのようなものを感じずにはいられない。すなわち現地人たちに現地の文化を反映させたユニークな制服をしつらえることは、フランス人からの異文化への興味・感心の表れでもあり、そうしたものをフランス軍の枠組みのなかに組み込もうとする融和的意図を感じるのだ。それはシノワズリであったり、同時期に流行したジャポニスムのような異文化趣味がパリで花開いたこととも無関係ではないだろう。1864年に横浜に建てられたフランス海軍病院を見ても彼らの異文化かぶれっぷりを感じずにはいられない。(もっとも、開国当初の日本では欧州式の建材が手に入らなかったことが理由であろうが)

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