ポーランド人騎兵をしのぶ

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さる11月11日はポーランド独立記念日だったんですよ(暗黒微笑)

ポーランドの黄金時代を築く礎となった最強騎兵隊、フサリアの伝説が広く知られて久しい昨今ですし、このページでも紹介してみます。

有翼衝撃重騎兵フサリア

16世紀に成立したポーランド・リトアニア共和国は、当時としては進んだ民主的・立憲君主的な政治制度によって運営される連合国家として中欧に君臨していました。シュラフタと呼ばれる貴族階級が王権を制限するような力を持っていたことが特徴ですが、彼らは西洋の貴族と言うよりは日本の士族的なものだと解釈した方が正しいかもしれません。というのも、シュラフタの中には貴族のイメージ通り直接労働に従事しない富裕層も居れば、職人や労働者として働く者もいたからです。また多くのシュラフタはサルマティズムという貴族文化に慣れ親しんでいました。自らを古代の遊牧民サルマタイ人の末裔と自負し、アジア風の恰好をしてみたり、遊牧民的な自由・尚武の気風を良しとしていたのです。彼らは横の共同体意識を持ち、シュラフタであることに仲間意識を感じていました。とはいえ、シュラフタはポーランド人・リトアニア人・タタールコサック等様々な民族・宗教の枠組みを越えて構成され、多文化主義を後押ししました。

フサリアの歴史はハンガリー王国に存在したセルビア人騎兵隊に端を発します。セルビア帝国が拡大を続けるイスラーム世界の雄、オスマン帝国に征服されてしまうと、当地の騎士団や避難民がハンガリーに殺到、元より軽騎兵の運用に長けたハンガリーが彼らを国王親衛隊として吸収したのが始まりだと言われています。

※彼らセルビア人は「黒の騎士団」と呼ばれていたらしいが、これはハンガリーに存在した「黒軍」と呼ばれる傭兵組織と同一のものかは不明。

やがてハンガリーも国土の半分以上をオスマン帝国に支配され、欧州とイスラーム勢力との最前線へと変貌していく中で周辺各国にも軽騎兵技術が伝わり、16世紀ごろポーランドで発足したものがフサリアです。当初は軽装騎兵として発足した兵種ながら、次第に西欧の影響を受け重装騎兵へと変化してゆきます。とはいえその姿はどの西欧国家の騎兵ともかけ離れた特異なもので、真紅のビロードの服の上から甲冑と豹皮のマントを纏い、極めつけに巨大な翼を生やした出で立ちで戦場を駆けていました。彼らの代名詞とでもいうべき「翼」が用いられるようになった理由ははっきりしておらず、遊牧民が用いる投げ縄への対策だとか、走るとき風圧でゴウゴウと音を立て威嚇になる等が挙げられていますが、大方かっこいいだろぉ!?って感じで流行ったんだと思います。ちなみに翼はワシや白鳥・ガチョウ等の羽毛が用いられており、危ないので戦闘時には背負わず鞍に固定しています。ちなみに最初の画像はフサリアの隊長服をイメージしてます。彼らは毛皮の帽子とコートを纏っていることが多かったようですね。

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フサリアが使用した武器といえば何と言っても長大な槍、コピアが挙げられるでしょう。彼らが活躍した当時は長槍兵(歩兵)による密集陣形の時代でしたが、フサリアは敵の兵士が持つ槍の長さを軽く超える5m以上の大業物を使っていました。通常であれば両手でも取扱いに難儀するレベルですが、彼らは長さと軽さを両立するため中身を削って空洞にしており、そのため耐久性では一般の突撃槍に大きく劣りました(通常の突撃槍も歩兵の槍に比べて衝撃を分散させるため壊れやすくなっている)。その為フサリアは中世の騎士さながらに従者を連れ、替えのコピアを何本も持たせて待機させておき突撃した後は自陣に戻り補給、相手の隊列が崩れるまで再度突撃を繰り返していました。槍の耐久性に問題があったためか、長大なコンツェシュと呼ばれる鎧刺しやシャブラと呼ばれるサーベル・メイス・ピストル等予備の武器を一度に数多くぶら下げて戦場に望んでいたらしく、引き出しの多さはパーフェクトガンダムに匹敵すると思います。

フサリアが跨った軍用馬も彼ら同様並外れた能力を誇っていました。欧州各国の重装騎士が跨った大型馬ではなく、アラブ原産で中型ながら頑丈かつ従順なアラブ馬を使用していたからです。オスマン帝国との交易、または闘争の結果、彼らの優れた馬を獲得することに成功したポーランドでは、ヨーロッパで初めてアラブ馬の大規模飼育を始めたることに成功します。また、ポーランドでは各地の有力貴族たちが王室と同等の厩舎を持つ権利を有していました。優れた軍馬を飼育する技術があり、大規模な飼育施設を所有した貴族が多数存在していたことでフサリアは完成しました。フサリアの躍進はポーランドが長きに渡って軍馬運用で世界の最先端を走っていたからなのです。

フサリアの輝かしい戦果のなかには、圧倒的有利な数を誇る敵軍相手に寡兵で大打撃を与えた例が少なくありません。

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1605年、「Battle of Kircholm」
スウェーデン軍12000人が、2500人のポーランドフサリアがたった1回の突撃により、スウェーデン軍が戦力の60~80%である5000~9000人の死者を出したのに対して、ポーランドフサリアの死者は100人だった。

1620年、「Battle of Cecora」 
ポーランドは負けはするが15000人のオスマントルコ軍に300人のポーランドフサリアが突撃し1000人近くの被害を与えた。

1651年、「Battle of Berestechko」
14万人のコサック・タタール連合軍が7万人戦死したのに対しポーランドの被害は300人

しかしながら彼らの最も高名な戦果を挙げるとするなら、オスマン帝国による第2次ウィーン包囲を打ち砕いたことでしょう。中欧の盟主、ハプスブルクの都ウィーンが異教徒の手に堕ちようとしているまさにその時、郊外山の手に待機していた3000のフサリアが敵の本陣めがけ強硬中央突破を敢行、大混乱に陥ったオスマン帝国軍は瓦解しほうぼうの体で撤退、そのまま二度とウィーンの地を踏むことはありませんでした。この功績からポーランドは「キリスト教世界の防波堤」と称されるようになります。文化的な側面ではクロワッサンが誕生する契機となったことでも有名で、この戦いの後「イスラームを食べる」という意味合いで三日月型のパンをウィーン名物として売り始めたことが起源だと言われています。またウィーンに住むユダヤ人市民がこの勝利に感動し、鐙を模したパンを焼きポーランド王に献上したことからポーランド語で「馬の鐙」を意味するベーグルが生まれたとも伝えられています。

名曲すぎる……

こうして栄光の時代を謳歌したポーランドですが、時代が進むにつれて彼らの前には暗雲が立ち込めることになります。ポーランド支配下プロシア公領がプロイセン公国として独立し、ポーランド軍で軍役に就いていたコサック達もロシアの後ろ盾で次々と反乱を起こしヘーチマン国家として独立・国力の低下が避けられない事態に陥ります。また1700年に勃発した大北方戦争では流星王カール12世率いるスウェーデン・バルト帝国に蹂躙され、周辺国家からも緩衝地帯として扱われる程軽んじられるほどに落ちぶれます。もはや往時の輝きすら見られることが無くなった哀れな大国は、やがてロシア・プロイセンオーストリアによって国土が分割されるという屈辱的な最期を迎え、1795年にポーランドという名の国家は地図上から姿を消しました。彼らが復権の時を迎えるのは(後述するナポレオン治世下で一時的に復活したものの)第一次大戦終結を迎える1919年のことです。

ナポレオン軍でのポーランド

祖国を失ったポーランド人の衝撃は計り知れず、ある者は反乱を起こすも鎮圧され、ある者は侵略者の軍門に下り彼らの皇帝の為に戦う兵士となり、またある者は庇護者を求め放浪の旅に出ます。ポーランドを分割した国々ではすぐさま彼らを利用した槍騎兵連隊創設に着手され、「ウーラン」と呼ばれる軽騎兵が生まれるに至りました。一般的にポーランド兵の被っていた「チャプカ」と呼ばれる頂点が四角い帽子や「クルトカ」と呼ばれるコートを纏っており、フロックコート等前合わせがダブルの服はこの制服を元にして作られたと言われています。

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しかしながら多くのポーランド人は第三国であるフランスへ逃れ、対オーストリア戦で名声を得たナポレオンを「解放者」と見なし熱狂的なまでに崇拝し、フランス大陸軍の一員に加わることを決意します。

騎兵としてのポーランド人を高く評価していたナポレオンによって歓迎された彼らはすぐさま頭角を現し、フランス人から騎兵戦闘を教わる立場から教える立場へと転向、ナポレオン直属の「近衛槍騎兵第1連隊」として独立する程の待遇を得ました。向けられた期待を裏切ることもなく、騎兵戦闘では大陸軍最精鋭の近衛騎馬擲弾兵と共に無敗を誇り、半島戦争ではスペイン軍砲兵陣地への人並外れた勇敢な突撃を敢行したことでも名を馳せました。マドリード近郊、ソモシエラ峠の一本道に結集したスペイン軍砲兵陣地へと自殺的な突撃を行い、見事にこれを撃ち破ってしまうのです。

この際、ナポレオンはフランス人の将軍から「かの峠を奪取することは不可能です」と進言されると烈火の如く怒り、こう吐き捨てたと言います。

「不可能などという言葉の意味は知りたくもない!」

それからポーランド騎兵に前進を命じ、彼らはこの命令に答えました。歩兵師団すら撃退された鉄壁の丘を、わずか一個中隊で!

その後もナポレオン最後の戦いとなったワーテルローでイギリス軍近衛騎兵連隊を撃ち破り、大いにその面目を保ったと言えるでしょう。

フランス軍におけるポーランド騎兵の外見はクルトカと呼ばれるポーランド式の上衣と頂部が四角いチャプカという帽子を身に着け、勤務服は濃青に赤い折り返しと刺繍を施したものでした。将校とラッパ卒、下士官の一部は銀色のレース飾りを襟と袖口に付けています。彼らは大陸軍の中でも一層華麗な軍服を纏っており、素材自体一般兵士よりも上質なものが使われていました。

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余談ですが、1810年には併合下のオランダ近衛騎兵が「第2槍騎兵連隊」として親衛隊騎兵に編入されています。基本的にはポーランド騎兵と同じ制服ですが、カラーリングが赤に青色の折り返しとなっており、「ランシェ・ルージュ(赤い槍騎兵)」と呼ばれていました。ロシア遠征でオリジナルメンバーがほぼ壊滅したため、その後は普通にフランス人が補充されています。

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かつてポーランドと大いなる繁栄を分かち合ったリトアニアを覚えていますか?リトアニアロシア帝国に分割され同じく消滅していました。ナポレオンはロシア遠征の際にリトアニア人を集め、祖国奪還を夢見る彼らを第3槍騎兵連隊として編成します。残念ながら遠征中にコサック騎兵に包囲され壊滅の憂き目に遭い、僅かな生き残りが第一連隊に組み込まれたそう。制服は紺色に青に折り返し。

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またリトアニアン・タタール遊牧民起源でイスラム教徒)もこうした槍騎兵連隊の中に斥候として組み込まれていたようです。彼らはポーランド人でありながらフランス軍元帥まで上り詰めたポニャトフスキの名を借り「ポニャトフスキのコサック」と呼ばれていました。120名前後の編成だったようですが、ロシア遠征で大打撃を受け50名ほどに減少、それでもナポレオン退位まで戦い抜き、指揮官と何名かの生き残りは戦後リトアニアに帰ったらしい。よかったネ。

軍服はどことなく近衛マムルーク騎兵(エジプトから連れてきた元オスマン帝国の騎兵)に似てますね。どっちもイスラーム教徒だし。

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ポーランド人は歩兵としても共に軍靴を並べています。1796年、英雄ドンブロフスキの指導の下集まった7000のポーランド兵はイタリア戦線においてフランスの勝利に貢献しますが、ナポレオンがロシアと平和条約を結ぶと祖国の開放が望み薄であることに気づき、士気を大きく損ねることになります。その後彼らは遠く離れた中米のハイチで起きた黒人奴隷反乱を鎮圧するために派遣されますが、反乱者トゥーサン・ルーヴェルチュールの巧みな指揮や熱病に翻弄され敗北、再び欧州の土を踏んだものはわずか300人の部隊のみでした。

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その後ナポレオンはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンを粉砕、彼らが支配していた旧ポーランド領をワルシャワ公国として独立させ祖国奪還の約束を果たします。これはポーランド人が夢見た独立国家ではなくフランスの傀儡国家であり、ロシア遠征に際しても強制的に重い軍役を課せられることになります。ドンブロフスキは失意の中、ナポレオンの命令で祖国ポーランドに流れる川から命名された「ヴィスワ軍団」(Légion de la vistule)というポーランド人部隊を編成します。制服は一般的な戦列歩兵(フュージリア)が紺色に黄色の折り返し、白パンツで、連隊ごとに襟と袖の色が変わります。擲弾兵はチャプカが赤い装飾とポンポンで飾られ、ヴォルテジュールは黄色の肩章を付けます。槍騎兵部隊も存在しており、紺のパンツに黄色の縦線が入った以外はほぼ歩兵と同じ装飾です。軍団旗はニワトリ?かわいいね♥

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ワルシャワ公国建立後も旧リトアニア領の回復を夢見て打倒ロシアの隊列に加わりますが、遠征の失敗によって大きな痛手を負った末に国土は再び分割の憂き目に遭い、ポーランドは長く雌伏の時を迎えることになるのです。

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ヴィスワ軍団が作られた当時、『ドンブロフスキのマズルカ』と呼ばれる軍歌が誕生、軍団内で流行しました。敗戦後も長く受け継がれ、第一次大戦終結したのちポーランドが独立すると国歌に制定されます。時代の波に翻弄されながらも、時の試練を耐え抜いたポーランド人の不屈さと勇壮さが現れているような気がします。

 

 

ポーランドは未だ滅びず
我らが生きるかぎり
同盟が我らから取り上げたものを
我らはサーベルで取り戻す

行進、行進、ドンブロフスキ

イタリアからポーランドまで

あなたの指揮下で

我らは再び国民となる